五月アゲハ

おっさんが多少は楽しく生きるための備忘録

物語を消費できるかできないか

連合赤軍に興味を持ったのは、そもそも大塚英志氏原作の漫画が原因だったと思う。
そこから各種書籍を読み、ネットの文献を拾い読み、学生運動の時代に学生だった父親と伯父に話を聞いていた。

疑問点として常にあったのが、どうして革命を信じることができたんだろうか、という点。
自分と年齢も変わらない人達が本当に革命を起こせると信じ行動できた理由は何か、熱狂した理由は何かと考えていた。

永田洋子受刑者死去の報道を見て今一度考えてみるに、当事の彼らと今の自分の大きな違いは「物語を消費できるか、できないか」という考えが出てきた。
影響を受けたものを消費しきれなかったのが革命を信じた彼ら。
影響を受けたものを消費しきるのが、自分ではないかと考える。

消費することで影響は薄まり、消えていくし残るものもある。そして次の消費対象を探す。
消費できなかった場合、自分の中に残り続け、捌け口が見つからないまま積み重なるんじゃないだろうか。

消費する術、消費する対象物、どれも僕にとってはごく普通に回りにあって、知らないうちにどんどん消費する方法を身につけて、どんどん次の消費物が見つかっている。
革命を信じた彼らの時代は、消費する術も限られ、また次に消費するものも、多くは無かったんではなかろうか。

伯父が言うに、革命を志す学生の話を教師も一緒に聞いていたという。
父が言うに、当時からそんなのに興味も無く小説やら女遊びやらの方が楽しかったと言う話もある。

不器用だったからこそ革命を志したとしたら、僕は悲劇だとも思えてくる。
革命には愚直な志と、同時に狡猾な考えだって必要だと考える。

革命を志した彼らにしてみれば、この考えは笑われるのかな。
それでも、今では彼らの革命すら消費する自分に、何ともいえない気持ちを持つ。